ゆる~く近代史

かたくるしい表現の多い近代史を、ゆるーく紹介していくことを目指しています

開国前夜 3 1804年 レザノフ来航

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前回から感覚が空いてしまいましたが、普通に歴史を書いてもしょうがないだろう、と思って、歴史四コマ漫画にしてみようかと思ったのです。

で、画像ソフト(Inkscapeというもの)をダウンロードして、画像を作り始めたのですが、やはりいきなりは難しいですね・・・ あとセンスが無い。

なので、一コマ形式にしてみます。絵はこんなもんですが・・・上手になるでしょうか?

 

 

次にやってきたのが、ロシア人レザノフです。

 

実はその間に、イギリス人のブロートンという人が北太平洋を海軍の任務として探検して、1796年に北海道に立ち寄っているのですが、通商目的ではないので省きます。

あと、1803年にアメリカ商船が長崎に来て、通商を求めているようです。

 

レザノフは、露米会社(ロシアのアラスカからカムチャッカ千島列島の経営と交易を独占した国策会社)の総支配人です。露米会社の食糧難や経営改善のために、日本との交易を考え、ロシア皇帝の許可ももらって正式な使節として、日本にやってきました。

 

ラクスマンが持ち帰った入港許可証(信牌)を持って、ペテルブルグからはるばる南米を回って、カムチャッカにも寄って、1804年10月9日(文化1年9月24日)長崎に入港しました。ラクスマンの帰国から11年後のことです。

 

せっかく日本にやってきたレザノフですが、ラクスマンに信牌を与えた老中松平定信は既に失脚していました。

 

当時の老中は、以前の約束は無効であり、鎖国が日本の決まりである、ということで、通商を拒絶しました。

それだけではなく、「乱暴な応対をすれば、二度と来なくなるだろう」ということで、食料なども十分与えられなかったようです。

 

半年間も長崎の出島に滞在したレザノフですが、翌1805年の5月24日、カムチャッカへ帰って行きました。

 

レザノフはこの経験から、日本に対しては武力での開国以外に手段はない、という結論に達して、皇帝にもそのように上奏したとのことです。

 

レザノフはその意見書を撤回したようですが、レザノフの部下のフヴォストフという人が当初の命令に従って、翌年1806年に樺太の村を襲撃し、1807年に択捉島紗那という幕府の会所がある地を襲撃しました。

幕府、警備の津軽藩、南部藩の兵士は、銃や艦砲といったロシアの火力の前に、なすすべもなく敗北したとのことです。

 

この事件から分かることは、レザノフを追い返した際に、「冷淡な対応でロシアから報復があったとしても、武力も辞さない」と考えていたことで、当時の幕府は、日本の武力に自信を持っていたということです。

そしてその自信は、翌年のロシアの襲撃により崩れてしまいました。

 

ここからペリーの来航まで50年近くの年月がありますが、じゃあ武力の不足を自覚した幕府は、何かしているかというと、ほとんど何もしていないように思えます。

さすがに何もしていないということはないと思いますが、その間のヨーロッパの進歩からすると、何もしていないのとほぼ同じと言えます。

 

次回は、1808年のフェートン号事件を取り上げます。 

 

おろしやの レザノフ日本に やってきて なにもできずに 怒って帰る

開国前夜2 1778年~1793年 ロシア人の来航

前回に引き続き、外国船の来航と日本の対応を追っていきます。この辺は教科書通りです。(前回のは愛嬌)

 

1778年 ロシア船 厚岸に来航

 

まず、日本にやってきたのはロシアです。ロシアはシベリアを領有していて、地理的に近いため、日本との通商を希望してきました。

この時は、蝦夷地(北海道)を管轄する松前藩鎖国を理由に通商を拒否して、ロシア人は帰国しています。

 

1792年10月18日 ロシア人 ラクスマン 根室に来航

 

またロシア人がやってきましたが、今度は日本の漂流民大黒屋光太夫ら3名を連れて、漂流民を送り帰すという名目と、ちゃんとシベリア提督の書簡も持参して通商を求めてきました。

 

大黒屋光太夫は、伊勢国三重県)から米を積んで出航した後漂流、その後ロシア皇帝にも謁見していて、なかなかすごい生涯を送った人です。「おろしや国粋夢譚」という小説に取り上げられています。

 

松前藩は幕府に報告し、幕府は「外交交渉は長崎でしか行なわないので、長崎に行くように」と回答しています。その際に、幕府はラクスマンに対して、長崎港への入港許可証を与えています。

(あと日本刀3本と米を与えたらしい。Wikipedia英語版より)

 

ラクスマンは10月18日に根室に来航し、幕府の回答を待つまで、なんと8ヶ月も根室に滞在しています。現代とは時間の感覚が違いますね。

 

で、それだけ待ったのに交渉は松前で行うということで松前まで行って、長崎に行くように回答を受け取って、1793年の8月にロシアに帰国しました。

 

ラクスマンはせっかく許可証をもらったのですが、長崎には行っていません。このことが、次の事件を生むのですが、それはまた次回。

 

この辺の地図を作ろうかと思いましたが、上手にまとめていただいているサイトがありましたので、リンクを貼らせていただきます。

 

ラクスマンと初期の日ロ関係 | 歴史 | 北海道ファンマガジン

 

当時の幕府の老中は、寛政の改革で有名な松平定信です。田沼意次の政策を批判していたので、外国との取引など論外、としてロシアを体よく追い返すのかと思いきや、随分待たせたとはいえ、今後に含みを持たせた対応をしています。

「海国兵談」という書物も出ていて、ロシアを警戒していたというところはあると思います。

長崎に行かせるというのも、その場しのぎの対応とも言えますが、この辺はあまり詳しくないので分かりません。

 

根室に来て、松前に呼び出されて、長崎に行けと言われて、考えられないほどのたらい回しとも言えないこともないですが、これも国法だから仕方ないのかもしれません?

 

ともあれ、鎖国中の日本に、まずはロシア人が北海道で通商を求めてきたというところで今回は終わります。

 

おろしやの ラクスマンが やってきて 日本に通商 求めて帰る

 

これも小学生レベルですけど・・・ 何回か続けたら、五七五でラップ調近代史が出来るんじゃないかと思ってやってみます。

開国前夜1 1771年 ベニョヴスキー来襲?

ベニョヴスキーという人物をご存じですか?

 

知らなくても全然大丈夫で、僕もこのブログを書くことになり、いろいろ調べているうちに知りました。

Wikipediaでしか知らないのであまり偉そうにも書けないのですが、とても面白いと思ったので紹介してみますね。

 

Wikipediaによると、

 

モーリツ・ベニョヴスキー(1746年9月20日 - 1786年3月23日)は、東欧出身の犯罪者であり、鎖国中の日本をはじめ、多くの国で犯罪を犯した人物。男爵を自称した。

 

この人はハンガリーで生まれたそうです。

詐欺や殺人等の罪を繰り返し、ロシアで逮捕されてカムチャッカ半島に流刑にされたとのこと。

ここで他の囚人と共謀して看守を殺して脱獄し、船を奪って日本に向かって逃げたとのこと。

 

そして阿波国徳島藩の日和佐に来航したとのことです。カムチャッカから日和佐まで・・・適当に流れ着いたんじゃないでしょうか??

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ちなみに日和佐というのは、ウミガメの産卵で有名なところです。将来お遍路さんをすることがあれば、「ここにベニョヴスキーが来たのか・・・」と感慨にふけってくださいね。

 

ここで徳島藩に追い返されたのですが、このときにこのベニョヴスキーは、長崎のオランダ館長宛の手紙を渡したとのことです。

 

この手紙には、「ロシアが北海道の松前近辺を占拠するためにクリル(千島)諸島に要塞を築いている」という根も葉もないことが書かれてあったとのこと。

 

このことをきっかけとして、日本国内でロシアに対する警戒が高まり、工藤平助という人が「赤蝦夷風説考」という本を作ることになり、これが田沼意次の手に渡って、1785年の幕府の第一次蝦夷地調査につながっているとのことです。

 

バタフライ効果という言葉があって、わずかな変化によってその後の状態が大きく変わる、風が吹けば桶屋が儲かる的な話ですが、この虚言癖のあるベニョヴスキーという人がロシアで犯罪を犯さなかったら、江戸幕府が1785年の第一次蝦夷地調査を行なうことは無かったということです。

 

うーん、面白い。

 

ベニョヴスキーが日本に来襲していなくても、流れとして蝦夷地調査は行われていたのでしょうが、当時ロシアが東方に拡大していたのは歴史的事実で、幕府の調査が遅れていたら、日本とロシアの境界線は違ったものになっていたかもしれません。

 

まぁこの辺は歴史にIFはないので、妄想ですけども。

 

また当時の老中田沼意次の対応は、後にも続く江戸幕府の外国への対応とだいぶ違っていますね。その分、他の幕府閣僚からの反発も大きかったことでしょう。

 

今回は、開国前夜1として、ペリー来航までの外国船の来航状況と、幕府の対応状況をまとめた第一回をお送りしました。

 

今回の一句

ベニョヴスキー 歴史を変える 嘘もある 江戸の幕府が 蝦夷地を調査

嘘つきが 歴史を変える こともある ハンガリーから ウミガメの地へ

 

次回も引き続き、外国船の来航と幕府の対応を確認していきます。

 

はじめのご挨拶と日本近代史のおおまかな流れ

こんにちは。

 

私は、100年前.jpというブログを運営しています。100年前の新聞の社説記事を現代語訳して掲載しているサイトです。

 

上記のサイトを作る際に、私自身はすごい面白いな~と思って作っているのですが、いきなり上記のサイトにアクセスして、面白いなぁ~と思っていただける方も少ないのかな、と感じています。じゃあブログを読んでいただくために、この参考書を読んでください、というのも、ちょっと違うなと思います。

 

また、市販されている日本の近代史に関する本は難しすぎたり、逆に簡単すぎたり、良い本なんだけど高価だったり、なかなかこの書籍を、というおススメのものが無いなー、と感じています。

 

近代史を題材とした小説も、幕末や日露戦争に関しては沢山の本がありますが、その他の時代に関しては、あまりメジャーなものはありません。

 

ということで、じゃぁまぁ自分で幕末から100年前までの日本近代史を紹介する文章を作ってみようかな、と思い立って、このブログを始めてみます。

 自分自身の頭の整理にもなると思いますし。

 

「歴史」というジャンルには、常にイデオロギーの問題がつきものです。このサイトは右でもなく左でもなく、イデオロギーから離れて気楽に読めるものを目指しています。ふーんそうなんだ、というような感じで読めるもの、サイトの名前もそこからつけています。

 

さてさて、近代史の始まりは、ペリー来航から始めることが多いのですが、今回はまず一回目ということで、私の理解する日本の近代史の流れを大きくまとめてみますね。

 (他にもいろんな区分の仕方がありますので、あくまで私の頭の中の理解です ‐ とか書いていると、どんどん固くなってくるのですが)

 

1. 幕末 (1853年~1868年)

 

ペリーの来航から、江戸幕府が倒れて、明治新政府が誕生するまでの時機です。

開国により幕藩体制がゆらいでいき、最終的には根本的に国のかたちを変えないといけない、という意識に変わっていきました。

 

2. 新国家建設期(前期) (1868年~1878年

 

新しい政府が出来て、いろんな政策を急進的に行った時期です。新しい政策を行なう上で、反動もありました。その最後の反動である西南戦争が終了し、その後維新の立役者である大久保利通が暗殺されるまでの時期です。

 

3. 新国家建設期(後期) (1878年~1890年)

 

新国家建設前期の動揺が終わり、統治が安定してきました。次に、憲法、国会といった先進諸外国と同様の制度を作っていこうとした時機です。

 

4. 新国家運用期 (1890年~1910年ごろ)

 

憲法、国会が出来て、それを試行錯誤しながら運用していった時期です。日清、日露の戦争もあり、不平等条約も改正され、対外的な地位も確立されました。

台湾、朝鮮半島と、海外植民地を獲得しました。

また、明治維新の第一世代から第二世代への世代交代も、無事に行われました。

 

5. 安定期 (1910年ごろ~1927年)

 

国家の運営が安定してきて、国民の政治参加意識が高まった時期です。

同時にアジアの大国として、帝国主義的な競争に参加しつつ、国際的な役割も果たしていきます。

 

6. 危機期 (1927年~1937年)

 

金融恐慌から、社会が不安定となり、軍部が台頭してきた時期です。

 

7. 戦争期

 

 

週1回ぐらいのペースで、高校の教科書の2~3倍の情報量のものを作ろうと思っています。

出来るだけ漢字の割合を少なくしようと思っているのですが、なかなか難しいですね。

 

では、今日のところは以上です。