開国前夜1 1771年 ベニョヴスキー来襲?
ベニョヴスキーという人物をご存じですか?
知らなくても全然大丈夫で、僕もこのブログを書くことになり、いろいろ調べているうちに知りました。
Wikipediaでしか知らないのであまり偉そうにも書けないのですが、とても面白いと思ったので紹介してみますね。
Wikipediaによると、
モーリツ・ベニョヴスキー(1746年9月20日 - 1786年3月23日)は、東欧出身の犯罪者であり、鎖国中の日本をはじめ、多くの国で犯罪を犯した人物。男爵を自称した。
この人はハンガリーで生まれたそうです。
詐欺や殺人等の罪を繰り返し、ロシアで逮捕されてカムチャッカ半島に流刑にされたとのこと。
ここで他の囚人と共謀して看守を殺して脱獄し、船を奪って日本に向かって逃げたとのこと。
そして阿波国徳島藩の日和佐に来航したとのことです。カムチャッカから日和佐まで・・・適当に流れ着いたんじゃないでしょうか??
ちなみに日和佐というのは、ウミガメの産卵で有名なところです。将来お遍路さんをすることがあれば、「ここにベニョヴスキーが来たのか・・・」と感慨にふけってくださいね。
ここで徳島藩に追い返されたのですが、このときにこのベニョヴスキーは、長崎のオランダ館長宛の手紙を渡したとのことです。
この手紙には、「ロシアが北海道の松前近辺を占拠するためにクリル(千島)諸島に要塞を築いている」という根も葉もないことが書かれてあったとのこと。
このことをきっかけとして、日本国内でロシアに対する警戒が高まり、工藤平助という人が「赤蝦夷風説考」という本を作ることになり、これが田沼意次の手に渡って、1785年の幕府の第一次蝦夷地調査につながっているとのことです。
バタフライ効果という言葉があって、わずかな変化によってその後の状態が大きく変わる、風が吹けば桶屋が儲かる的な話ですが、この虚言癖のあるベニョヴスキーという人がロシアで犯罪を犯さなかったら、江戸幕府が1785年の第一次蝦夷地調査を行なうことは無かったということです。
うーん、面白い。
ベニョヴスキーが日本に来襲していなくても、流れとして蝦夷地調査は行われていたのでしょうが、当時ロシアが東方に拡大していたのは歴史的事実で、幕府の調査が遅れていたら、日本とロシアの境界線は違ったものになっていたかもしれません。
まぁこの辺は歴史にIFはないので、妄想ですけども。
また当時の老中田沼意次の対応は、後にも続く江戸幕府の外国への対応とだいぶ違っていますね。その分、他の幕府閣僚からの反発も大きかったことでしょう。
今回は、開国前夜1として、ペリー来航までの外国船の来航状況と、幕府の対応状況をまとめた第一回をお送りしました。
今回の一句
ベニョヴスキー 歴史を変える 嘘もある 江戸の幕府が 蝦夷地を調査
嘘つきが 歴史を変える こともある ハンガリーから ウミガメの地へ
次回も引き続き、外国船の来航と幕府の対応を確認していきます。