ゆる~く近代史

かたくるしい表現の多い近代史を、ゆるーく紹介していくことを目指しています

開国前夜2 1778年~1793年 ロシア人の来航

前回に引き続き、外国船の来航と日本の対応を追っていきます。この辺は教科書通りです。(前回のは愛嬌)

 

1778年 ロシア船 厚岸に来航

 

まず、日本にやってきたのはロシアです。ロシアはシベリアを領有していて、地理的に近いため、日本との通商を希望してきました。

この時は、蝦夷地(北海道)を管轄する松前藩鎖国を理由に通商を拒否して、ロシア人は帰国しています。

 

1792年10月18日 ロシア人 ラクスマン 根室に来航

 

またロシア人がやってきましたが、今度は日本の漂流民大黒屋光太夫ら3名を連れて、漂流民を送り帰すという名目と、ちゃんとシベリア提督の書簡も持参して通商を求めてきました。

 

大黒屋光太夫は、伊勢国三重県)から米を積んで出航した後漂流、その後ロシア皇帝にも謁見していて、なかなかすごい生涯を送った人です。「おろしや国粋夢譚」という小説に取り上げられています。

 

松前藩は幕府に報告し、幕府は「外交交渉は長崎でしか行なわないので、長崎に行くように」と回答しています。その際に、幕府はラクスマンに対して、長崎港への入港許可証を与えています。

(あと日本刀3本と米を与えたらしい。Wikipedia英語版より)

 

ラクスマンは10月18日に根室に来航し、幕府の回答を待つまで、なんと8ヶ月も根室に滞在しています。現代とは時間の感覚が違いますね。

 

で、それだけ待ったのに交渉は松前で行うということで松前まで行って、長崎に行くように回答を受け取って、1793年の8月にロシアに帰国しました。

 

ラクスマンはせっかく許可証をもらったのですが、長崎には行っていません。このことが、次の事件を生むのですが、それはまた次回。

 

この辺の地図を作ろうかと思いましたが、上手にまとめていただいているサイトがありましたので、リンクを貼らせていただきます。

 

ラクスマンと初期の日ロ関係 | 歴史 | 北海道ファンマガジン

 

当時の幕府の老中は、寛政の改革で有名な松平定信です。田沼意次の政策を批判していたので、外国との取引など論外、としてロシアを体よく追い返すのかと思いきや、随分待たせたとはいえ、今後に含みを持たせた対応をしています。

「海国兵談」という書物も出ていて、ロシアを警戒していたというところはあると思います。

長崎に行かせるというのも、その場しのぎの対応とも言えますが、この辺はあまり詳しくないので分かりません。

 

根室に来て、松前に呼び出されて、長崎に行けと言われて、考えられないほどのたらい回しとも言えないこともないですが、これも国法だから仕方ないのかもしれません?

 

ともあれ、鎖国中の日本に、まずはロシア人が北海道で通商を求めてきたというところで今回は終わります。

 

おろしやの ラクスマンが やってきて 日本に通商 求めて帰る

 

これも小学生レベルですけど・・・ 何回か続けたら、五七五でラップ調近代史が出来るんじゃないかと思ってやってみます。